指導教員:入江経一(建築家、iamas教授)、小山明(デザイン教育研究センター、教授)、鈴木明(大学院総合デザイン専攻、教授)、大内克哉(デザイン教育研究センター、准教授)ほか
研究協同・ご協力:
INAXデザインセンター
内容と目的:
ル・コルビュジエ設計の「カップマルタンの休暇小屋」を手がかりに、近代の人間の居住空間を再読し、そこから現代の人間にとっての居住を考察する。また、そのプロトタイプとしての最小限の居住空間をデザインする。
1)カップマルタンの休暇小屋の考察…「実寸分析」「身体とイコン」「寸法と世界」「道具性と機能主義」
2)現代のわれわれにとっての「居住空間」とは何か…「都市と休暇」「制度としての居住と自由な居住」「仮設性と分散性」「空間と情報」「情報化と記号化」「さまざまな解像度」
3)最小限居住空間…プロトタイプの制作
キイワード…「機能分散」「最小限の空間」「外部とのリンク」「身体スケール」「裸の身体の再解釈」「情報のための空間」など。
テーマ1:「近代人の休暇」
・カップマルタンの休暇小屋の実寸体験から、身体スケールに基づいている生活機能や行為を理解する。この小屋は機能的な計画にもとづく最小限の空間としての内部である。(だが、必要な機能すべてが含まれているわけではない。いろいろな機能が外部に付置されている。)
・「モデュロール」は、これらの機能にも身体にもかかる枕詞のようなものとしてある、そこに描かれた裸の人体は、近代人としてのメタメッセージの役割をはたす英雄的なイコンであり、世界がまだ個人によって支えられうると信じる幸せな時代であった。
・裸の身体とはなんだったのか。彼自身の身体に対応する空間や家具を読むことと同時に、モデュロールにおけるとしての身体との関係を考察する。
・機能的であり、なおかつ機能が外部へと分散化しているこの計画の意味を再読する。建築というまとまりに対して、なんらかの形式が消失してゆくようなこの分散的な考え方は何を暗示するのか。作品というモード化やメタ言語化をめざさない直接的で無媒介な空間と、形式化をもくろむ建築との違いがここにある。
・機能以外の情報として空間に描かれた絵画的イメージ、いたずら描きのようなこれらの絵は他の建築にも見られる。これらは作家による署名なのか絵画的な挿絵なのか、芸術のアレゴリーなのかあるいは空間の視覚的情報の可能性なのか。そのどれかであり全部であったかもしれない。豊かさ(芸術的な)を加えるためのこうした要素が、彼やライト以後には(ミースを含めて)消えていることは何かを意味するのか。(これはおまけ的に考えてもよい)
テーマ2:「現代人の小屋」
・近代がつくりだした歴史の断絶が、われわれの都市居住の基本をつくっているが、カップマルタン的な居住はある意味では「近代」的な居住とはいえない。都市と郊外という関係ではなく、都市と非都市的な居住を考えるうえで、示唆的である。非都市的な居住を拡張してゆくと、資本主義が保障しない領域にあえて休暇をもとめるというところまでいく。
・現在の空間では、われわれは常に情報をもった空間のなかで、空間よりもそれらの情報を対象として行為している。情報が主役であり、空間はある意味ではどうでもよくなっている。そうした空間を再び主役にひきもどそうというのが、いわゆる建築の企てることであるが、そうしたローカルな建築に対して情報はグローバルな勢力であり、その関係を転覆させることはできない。建築にできることは、それ自体を目だった存在にみせることなのである。それは情報化して価値づけられ、序列化されていく。ここで問題にするのはこうした建築の問題ではなく、そうした「情報の息の根を止めるような」居住のあり方を考えてみることである。とはいえ、それは目標としては大きすぎ漠然としている。ここではより具体的に、機能的空間として、仕事、コミュニケーション、リラックス、食などの行為を極限まで追求し、それらを裸の身体のように再配置したものではないかと考える。居住における仮設性と分散性、空間と情報、さまざまな解像度などの視点で、現代人にとっての休暇小屋を考察する。(メタボリズムのカプセルは生活機能を要約しようとするものだった。)
・モノや空間の内部に収束するのではなく外部につながり開かれていなくてはならない。その意味では情報もそのひとつと考えてよい。